鎮魂の3月
今年も3.11はやってきて
終わらぬ悲しみの顔を見る
テレビに映し出される被災者の方の深い悲しみに
胸がつまり涙する
けれど私には何もできない
「がんばろう、東北」の言葉は
かえって被災者の胸にちくりと音を立てることもあるという
どう頑張るの?と思うのだろう
3年前、私は母を亡くした
震災の日の2日前
葬儀などを執り行いながら、未曽有の惨事の映像やニュースに混乱したのを覚えている
目の前の肉親の死すら語ってはいけない雰囲気だった
だから
私はこの日を複座な思いで過ごす
「あんたの母親のことでメソメソしてる時じゃない」と
見知らぬ人から中傷の言葉さえもらった
人の死に大きい、小さいはないのに
決して被災者の悲しみを見ないわけではないのに
昨年書いた詩は
ずっと前に日記で書いた内容
それを詩に仕立て直したもの
去って行った人への複雑な想いを書いた
どうすることもできない自分への怒りのようなものもあった
人は悲しみの中にいる時、深い想いが溢れだす
言葉も自然と出てくるようだ
そんな詩が賞を頂け、明後日には浜松市民文芸の表彰式
鎮魂は自分に対してのものだったかも知れない
ある願望の果てに
背筋はぴしっと
微動だに動かさず
左手はまっすぐ横へ
これでもかというほど
遠くへ 遠くへ
顔はゆらがず
見えぬものに挑むがごとく
前へ 前へ
その目は厳しく
されど清々しさを匂わせ
内なる天空の高みに向い
意識だけを
上へ 上へ
私は何をしているのか
まだ仄暗い早朝の小径
突如立ち止まり
奇妙な想いにとり憑かれる
右手には
しょぼんと惨めな顔つきの
ゴミ袋を持ち
朝の冷たい風を受ける
そして
誰かの声に耳を澄ます
聞こるか 何か
聞こえないか 何も
まだ大きく動き出す前の
静寂な世界では
去っていった人の声が
かすかに聞こえてくるだろうか
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